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1−1 武道と武士道の違い
武道(広義の意味の武道:武術を含む)というと、生理的に嫌悪感を持つ人がいます。 最初に公開したときに、武道を経験していない人や女性の聴講者もいらしたのですが、 この辺を最初に整理することによって評価を受けました。
武士道の定義 君主に仕える道 君主に対して命を掛けて仕える事ができるか。腹を切れるかということなのです。
武道の定義 武技を駆使して相手を制し、自分の生命身体を護る方法の総称
一般人による武道及び武道家の持つイメージについて 明治維新まで主に武道を行う人 → 侍 敗戦まで主に武道を行う人 → 軍人 というように、武道を行っていた人の立場が前時代的であるのとダブって、 嫌悪感を抱く人がいるのではないかと思います。 それは武道と武士道の定義及び、歴史観が曖昧だからなのです。
Q:二足の草鞋さん 私も、職業上、「文章(小説・評論等、第三者に見せることを前提とした全ての文章)読解」を教えるときに、 次の2点を強調します。 1.作者がある言葉をどう定義しているか? 2.その文章の主張を理解し終わるまでは、作者が定義した言葉の意味に従うこと。 たとえば、ある文章で、作者が「人間性の本質」という言葉を、「利己主義である」と定義していたら、 それが自分の「人間の本質」という言葉についての考えと、全く相容れないものであっても、 その文章を読解し終わるまでは、作者の定義に従うということです。 桧垣様が言葉の定義について強調されることに、私も同感です。 そこで、今後、桧垣様が、自分の論を展開されるに当たって、 武士道=君主に対して命を掛けて仕える精神 武道=武技を駆使して相手を制し、自分の生命身体を護る方法 そして武士道≠武道 という理解でよろしいでしょうか? また、「君主に対して」と書かれていますので、 「愛する人に対して命を投げ出す」とか 「他人に対して命を投げ出す」等の精神(この場合は仕えるということではなくなりますが)は 武士道とは違うと考えてよろしいでしょうか? A:講師 >そして武士道≠武道という理解でよろしいでしょうか?
そういうことです。
>また、「君主に対して」と書かれていますので、 >「愛する人に対して命を投げ出す」とか「他人に対して命を投げ出す」等の精神(この場 >合は仕えるということではなくなりますが)は >武士道とは違うと考えてよろしいでしょうか?
君主を会社に代えればサラリーマン道とでもいうのでしょう。 命を掛けてということは、要は「責任を取る」ということだと思います。 会社であれ、愛する人であれ、その対象を守るために命を掛けて責任を果たすということであれば、 それは形を変えた武士道だと思います。
I:凱さん 以前に何かの本で読んだ事が有るのですが、確か宮本武蔵だった・・と思うのですが (この辺定かではありません・・兎に角高名な人物)、ある日主君(仕えてている殿様)から、 「武士道とはどの様なものだ?」と聞かれた武蔵(としておいて下さい<(_
_)>) ・・「解りました・・」とだけ答え、弟子を一人主君の前に呼んでこう言いました ・・「お前は殿様の命により切腹が決まった・・」そう言われた弟子、顔色一つ変えるでも無く「はっ!」と だけ答えて切腹の私宅をし、今まさに脇差が腹に差し込まれる瞬間 「待った・・切腹は取り止めとなった・・下がっておれ・・」と武蔵が行った所 またしても顔色一つ変えず下がって言った・・そして武蔵の言った一言・・「これが武士道でございます・・」 己の命は主君の物・・なんの疑いも、不平も不満も感じる事無く、 ただその“命”に従う事・・“武士道とは死ぬ事と見つけたり!”もその心構えだと言っていました。 そう考えると「武道=己の生き様、近しい者を守る為」 「武士道=捧げた命、正邪併せ呑み国に尽くす」と言えるかな?と思いました。
I:講師 >凱様
私も読んだことがあります。 自分がその弟子の立場だったら、同じことができるだろうか。。。 考えてしまいました。
1−2 武道とスポーツの違い
よく、柔道は武道かスポーツかというような議論があります。 この議論も中々結論が出ないまま、最近はされなくなりました。 この議論は、日本が敗戦により武道が禁止され、それを許可してもらう為に、 武道をスポーツとして言い換えているという歴史的経過があるために雑になっているのでしょう。
また、それに代わって、最近は武道か格闘技かというような分類ができてきました。 新しくでてきた総合系の格技の分類を、伝統武道に入れないで呼称するためにできたように思います。
例えば柔道自体も明治15年に出発したときは、それまでの伝統武術とは一線を画したのでしょう。 柔術とは言わないで柔道という呼称を用いています。
私としては以下のように定義しています。
武道(武術)の定義 : 殺傷技術が前提にあったもの スポーツの定義 : 娯楽、競技が前提のもの
柔道はスポーツか 柔道は嘉納治五郎氏が始めたものであり、戦前までは武器の研究も行われていました。 昭和2年に制定された精力善用国民体育の形は、空手の基本動作です。(回しげりや後ろげりもある) 当時、空手が本土に紹介された直後であり、船越義珍氏や摩文仁賢和氏を講道館に招いて、空手の研究をしています。 また、戦後の昭和27年制定の講道館護身術には、武器を使用した形があります。 現在の柔道競技でも絞技が存在していることを鑑みれば、柔道は武道と呼称すべきであると思います。
したがって、私からすればオリンピック競技の槍投げも武道という認識です。
>武道とスポーツの定義 >前提条件の違いというのはよくわかりました。 >そうしますと、ボクシングやレスリング等も武道に分類されるという認識で >正しいでしょうか?
認識というのは十人十色ですので誰がどう思おうといいのですが、 私の認識では武道というカテゴリーに入ります。武道がスポーツ化したとでもいえばいいのでしょうか。 西洋ではどういう認識なのか興味がありますね。
>精力善用国民体育の形 >昭和2年に制定された型に廻し蹴りや後ろ蹴りが含まれているというのは、 >これも興味深いお話です。常識や定説?がいかに当てにならないかの見本ですね。
元々柔道が総合武道として出発していますので、嘉納治五郎先生は貪欲に吸収しようとしていたのでしょう。 嘉納先生は、最終的に突き蹴りを含めた乱取りを目指していたようですから。
昭和27年制定の講道館護身術は、講道館8段合気道8段の富木謙治先生が中心となって纏めています。 内容的には殆どが合気道の技です。 富木先生は、嘉納先生の命により合気道の植芝盛平先生のところへ派遣され最初に8段を頂いた人です。
Q:のぶさん >西洋人の認識
前にLAボクシングジムに通っていたのですが、その中で空手の事をトレーナーに「Martial Arts」だと 言われたので、それとは何か違う気がする・・・「Budou」というカテゴリーを作ってくれ、英語にも。 という事を話して、では「budou」と「martial arts」ではどう違うんだ? という話になったのです。 そこで僕の見解を話したのですが、 彼に言わせるとボクシングはスポーツであってマーシャルアーツではないとの事でした。
そしてスポーツがどれほど素晴らしいものなのかを講釈垂れられた記憶があります。(笑
LAボクシングジムというと、世界のボクシングジムではかなり優秀なところだと僕は思っていますが、 そこのトレーナーが言うには「ボクシング=スポーツ」との事でしたが、 桧垣源之助様の定義による「前提としたもの」という意味では、 彼も「元々は殺傷技術」との件を言っていましたので、「武道」になるとおもいます。
まぁ、桧垣源之助様も仰るとおり定義によってかわってきますよね。
Q:hiroさん 槍投げも武道ですか・・・・・ でも、本当に槍投げは危険ですね!以前私も槍投げの選手でしたが、 ジュースの缶ぐらいは余裕でブチ貫けますよ・・・。 しかも60〜70%のパワーならかなりコントロールがききますからね・・・・。
ところで、私もこっちでボクシングをしている人を何人か知っていますが、 彼らの認識は「スポーツ」ですね。でも、ムエタイは人によってはマーシャルアーツっぽいですが・・・。
A:講師 武道の認識について議論していただいてありがとうございます。 ボクシングや槍投げが「武道」というのは驚かれたと思います。 武道かスポーツか意見はそれぞれだと思います。 ぞれぞれの人に目的があり、目的が違えば認識も違います。 ただ、私がここで展開していることは「認識」についてですので それぞれのテーマは練習課題として見ていただいて結構です。 上達するとか、技術を身につけるというのは、身体的認識があがる ことなのです。 もうしばらく、幾つかのテーマにお付合いください。
>私は<古流>でひとくくりにしてしまっていましたが、 >そんな単純なものでは無いのですね。。。^^;
そうですね。古流の定義は難しいと思います。 私の認識は上達論の中で以下のように定義しています。
1−3 武術と武道の定義 武術の定義:古伝(明治以前からある)の武道一般をさす 武技を駆使しての護身術(禁止技なし) 練習体系の秘密化 例:柔術、剣術、槍術
武道の定義:明治以降に改良もしくは創始されたもの 明治以前からあっても、競技になってルールが設定されたもの 練習体系の公開 競技を前提にしたもの(禁止技の設定) 例:柔道、剣道
両方にまたがるもの 空手道、合気道
ですから、競技空手(現代空手)と古流空手では同じ空手であってもカテゴリーが違うという捉え方です。 したがって、目的や練習体系も違ってきているのでしょう。 代表のHPにも書かれていましたが、一人一流というのが実態ではないでしょうか。 ただ、後世に伝えるためには言葉の定義は大切なことだと思います。
>平安に戻って取り組もうと思っていますが、 >手刀受けにつきまして、全空連系の直線的なものと、 >極真系の廻すもの。。。どちらが正しいとか言うものでも無いと思いますが、 >いずれも相手の前腕などを掴んで引き寄せ(踏み込み) >手刀〜前腕で頚部を打つ技との解釈は正しいでしょうか? >これにもやはり分解等があるのでしょうか?
手刀受けの分解はあります。 ヒントは古流空手スレにも書きましたが、現時点でわざと書いていません。 新垣師範の著書にもヒントはありました。 書くのは簡単ですが、できれば順を追って書いていきたいのです。 技術だけの公開をするつもりはありません。なぜなら、師が失敗していると思うからです。 師は私以外にも多くの人に技術の公開をしましたが、理解できた人がいないようなのです。 全体像の理解がなければ、ただのガラクタです。 その部品が何処に位置するのかが大事なことだと思っています。
最上部
1-4 武道と護身術
現代の武道は競技を主体にして発展している為、防御だけでは勝てないので攻撃を重視しています。 したがって競技ではない本来の武道という意味で護身術という場合があります。
護身について 狭義の定義 不当な暴力から自分の生命を護ることをいう。 相手の暴力を封じる方法として、その効果の上から次のように分けられる。 1:相手の生命を奪う場合 2:相手の生命を奪うまでには至らないが障害を与える場合 3:相手の身体に障害を与えないで、暴力だけ封じる場合 もちろん3が護身術としては最高のレベルなのですが、これを実現するためには相手より数段上の 実力がなければできないでしょう。その為にも不断の練習が必要なのです。 特に「相手の身体に障害を与えないで」というのは難しいことです。 柔術では「痛覚」だけ与えて、「障害」を与えないようにと習います。
広義の定義 安全教育です。武技に頼らない護身でもあります。 「君子危うきに近寄らず」「備えあれば憂いなし」と言われるように、 1:人災 技術革新のもたらしたもの(交通災害、公害など) 2:天災 人為を越えたもの (地震、台風、水害) 3:病気 俗にいう地震、雷、火事、親父(ヤベ-)がその対象でしょう。 1と2は安全教育として、3は健康教育として現代人の課題であると思います。 私に言わせれば、道路交通法を学ぶことも広義の意味での護身なのです。
1−5 道について
何々道と「道」をつける呼称が日本ではよく使われますが「道」とは何なのでしょう。 スポーツでさえ「野球道」のように道をつけて表現することがあります。 これらは、「技術+精神」を表現したいのだと思いますが、そのような使い方で良いのでしょうか。
一般的な見方 その1 (精神=道) 単なる技術の向上のために修行を行うのではなく、修行することによって精神を修養し人間完成として道がある。 そのため、従来の〜術を〜道へと改名されるようになった。
一般的な見方 その2 (理想=道) 道というのは、理想であって遠くにあるものである。したがって、常に道に近づくように努力すればよい。
ちょっと物知りな見方 明治以前まで術といわれていたものが、嘉納治五郎の柔道の命名により影響を受け、それ以降〜道と改称された。
武道をやると人格形成ができるのか 嘉納治五郎は「何十年間竹刀で技術を練習しても、投技や逆技の練習をしても、 そういう練習や研究からは尊王の精神も道徳も発生してこない」と言いきっています。 また、「それでは、昔の武士がなぜに武技にも長じ、武士道も心得ていたかというに、 それは武術を修めると同時にそういう教えを特に受けていたからである」といっています。 要するに、武道の練習だけでは人格形成はできないということなのです。 講道館柔道の目的は「体育、勝負、修心」であり、これらを収める方法として「乱取、形、講義、問答」を定めています。
道の本来の意味 誰でも安全に技術の修得ができるカリキュラムのことをいう。 誰でもその道路(道)を歩けば、同じ目的地に着くのである。 嘉納治五郎氏は、古流柔術より原理を抽出し合理的な連取方法を公開したと同時に、 「講義、問答」をセットで教えることを発案し、柔道を学問として位置付けている。
Q:代表 一つには、やはり武道には徳育がセットで必要だということですね。 確かに地元でも、オリンピッククラスの某有名選手が来県した時の とんでもない醜聞を聴きましたし、これに類する話は少なくありません。
<道>の定義は実は物理的な道路の機能そのものを 上達の構造に流用したということになるのでしょうか?
Q:凱さん 「柔道」が学問!?・・こんな考え方は今までした事がありませんでした!
言われて見れば「武士」って産まれてから死ぬまで「武士」なんですよね・・ 四六時中「武士たるものは・・」と礼儀作法やら忠誠心・道徳心を親から周囲から躾けられ、 そして当然の義務として剣の技術も磨いていた・・。 恐らく苦しい修行とその成果&道徳心は「セット」になって、元来別々に考える事すら無かったんでしょうね・・ 現代の“片手間に”やる武道とはその次元が違う様に思います・・。 そう考えると現代に果たして本当に根っからの「空手」「武道家」ってどれ位いるのでしょうか?・・
Q:のぶさん >凱さん
なんだか、気が合いますな。(笑
僕も柔道が学問っていうのが引っかかっていました。 まぁここでも「学問」の定義が重要になってくるとは思うのですが、 色んな意味で突き詰めていくと全てが学問になるとは思います。
>誰でもその道路(道)を歩けば、同じ目的地に着くのである。
つまり名前に関係なく真理は一つであるという事ですね? 後は、その修行方法(道路)が砂利道であったり、S字だったり坂道であったりする。 故に、その道路の優越を語っても無意味であると。 逆に言うと「道」という"名"が無くとも、同じ真理を武術面で目指しているものであれば、 「武道」と呼んでも良いという認識で宜しいでしょうか?
A:講師 代表様 >やはり武道には徳育がセットで必要だということですね。 そうですね。言い方を代えれば殺人術を習うわけですから。。。 OOOOに刃物では困ります。
<道>の定義 そうだと思います。初心者にもわかり易い表現が必要なのだと思います。
凱様 >「柔道」が学問!? 私も最初は「えっ・・・、がくも〜ん?」って感じでした。 補足説明ありがとうございます。その通りですね。
のぶ様 >故に、その道路の優越を語っても無意味であると。 いいえ違います。道路の優越はあります。間違った道では目的地に着かない場合があります。 勉強でも同じでしょう。教える順番があり、教え方があるのですそこに差がでるのだと思います。 これは後ほど上達論のところで詳しく述べる予定です。
>逆に言うと「道」という"名"が無くとも、同じ真理を武術面で目指しているものであれば、 「武道」と呼んでも良>いという認識で宜しいでしょうか? そう思います。
I:凱さん >間違った道では目的地に着かない場合があります。 なるほど納得!です・・だからこそ“先人達”はその道の歩き方を大事にしてたのでしょうね。 そう考えると今の武道修行の大半って、山頂までロープウエイで行く、の如く (自分の足で大地を踏みしめ無い・・と言う意味と、“辻”から“辻”に到達するまでに 修めなければならない器の中身より、器の形そのもので満足してしまうという意味です)登ってしまい、 正に表面だけで修めた気になってしまっている・・と言うのが現状でしょうか・・ やはり我々は先人達が迷い、行き止まり、引き返し、また歩き出しながら作ってきた “道しるべ”を蔑ろにすべきでは無いですね・・。
1−6 嘉納治五郎の柔道 一般的には形中心の前時代的な練習体系を改めて、 乱取り(試合形式)の練習体系を採用し現代化を図ったとされますが、 乱取練習は嘉納氏が習った柔術にすでに存在していました。
柔道の意義 講道館柔道の目的は「体育、勝負、修心」でありこれらを収める方法として 「乱取、形、講義、問答」を定めていますが、特に注目すべきことは、 技術の中から術(自然体の理、柔の理、崩しの理)を取り出し、 術のみを初心者にもわかるように教える練習体系を作ったところにその真髄があります。 (現在は言葉のみが存在しているように見受けられる)
最終的には維新により廃れていく素手武術を柔道に包含し、 突き蹴りを含めた乱取を最終目的にしていたようです。(これってVTかも)
さらに嘉納氏は、柔道原理を生活のあらゆる面に応用することを理想とし、 精力善用、自他共栄の精神を説いていきました。
このことは嘉納氏の中では一貫していることでも、他から見ると、 技術だったり、競技だったり、護身術だったり、哲学だったりと色々な面が見えるのでしょう。 そこに道という言葉の混乱があるのではと思います。
私は以下の様に言葉を分ける方が、解りやすかったと思っています。
術:技術 道:カリキュラム、練習体系 法:精力善用、自他共栄
最上部 これで第一章の「武道とは何か」を終わります。 相手が不特定多数であり、どのレベルに合わせなければならないかということを、 相手の顔をみながら確認できないことが難しいです。
武道の概念が整理できたでしょうか。それとも混乱してしまったでしょうか。 武道とは総称であり概念ですから、各人の捕らえ方が違うと思います。 この部分は違うと思うなーと言う部分があってもかまいません。 ただ、自分なりの考え方の整理のきっかけにしてください。 この部分は本来「武道」である必要はないのです。 私がたまたま武道を媒介にして技術上達論を研究したに過ぎず、テニスでも数学でもいいのです。 感想を書いていただけると非常に助かります。
第二章は「技術とは何か」について解説したいと思います。 私も最近この手の話をしていないので、昔のメモなどを確認しながら書いていますが、 約10年前の平成5年5月の講義のときも確か1月くらい準備期間に費やしました。 今回は、準備期間もなく成り行き?で20年前の記憶を呼び戻しながらですし、 また当時と考えも違っている部分があり、部分的に整合性が保てないところも出てくるかもしれません。 あらかじめお断りしておきます。m(__)m
I:凱さん 今回の講義を拝聴して再認識した事は「術と理」は、 当たり前ですけど“表裏一体”“上下・左右同列”“両翼・両輪”でなければいけないと言う事ですね。 術を使いこなすには理が必要で、理を表現する手段で術がある・・そのどれも欠けては(本来)ならないのですね・・。
少し“マニア”な例え話を少々・・・ かつて空海と最澄が袂を分かった理由も、この認識の違いでした。 「理を欲するならば、まず修行せよ・・」と言う空海に対し「経典を写し取らせて欲しい・・」とだけ言い、 書物を読む事のみで“密教”を理解しようとした最澄・・。 最澄はいわば“エリート官僚”で、生まれながらにして多くの書物を読み、 暗記する事で己の位を上げて行き、そして仏教を学びに中国へすんなりと行けた。 一方の空海は、幼い頃に偶然知った密教に魅せられ、その断片を模索しながら山谷を駆け巡り放浪して、 難行苦行の肉体行を自らに課して得た“術理”の下地があったからこそ、 中国に於いて日本人唯一の“正統密教”を継ぐ事を許された、と言う経緯があった・・
空海が言うのは、身体を使って得た感覚が理には必要で、且つ理によって術の真理を理解出来る(気づき)、 そしてその二つは本来融合している!と言う事・・・この事が最澄の思いとは食い違って、 結局喧嘩別れの様になってしまった・・。 宗教界の二大巨人とも言える二人ですらこうなのですから、 我々凡人はもっと真摯に素直にそして“がむしゃら”ならないといけないですね。
今回はまだ、理の「基本中の基本」ですので、 ココから先はげっぷが出ない程度に帯を絞めて(気負い過ぎないでと言う意味です(*^^))、 次の講義に備えたいと思います。
I:講師 >凱様
おー、まさしくその通りですね。(^o^)/ 私は凱様の講義を受けたくなってきました。
I:鷹ノ巣さん 来ました。(実は来てた癖にこそこそ隠れていただけなのですが^^)
第一弾を終えて・・・。素晴らしい論理であると思います。 「誰でもその道路(道)を歩けば、同じ目的地に着くのである。」の御言葉には思わずハッとさせられました。 草創期の講道館は凄かったとは聞いていましたが、ここまで考えられていたとは・・・。驚きです。 そして何よりも思ったのは自分の教わってきた流儀をとことん信じていこうという事です。 自分のやっていた流派も師範の講義がとても重視されていました。 また昇段試験では面接も含まれており、日常の練習後でも幹部の先輩から理論の確認等をいじめのように・・・。 先輩の質問に答えられないと「お前ぇ、教科書ちゃんとよんでんのか?」と怒られてました。 これを契機に難解すぎて学生時代に断念した師範の「武道講義」シリーズに挑戦しようと思い 昨日は仮眠室のベッドでずっと読んでました。やっぱり難しかったですが^^ 桧垣源之助様の理論とは違う点もあるかもしれませんが一度師匠と仰いだからは最後まで付いて行こうと思います。 もちろん拝読は続けさせて頂きます。先生の理論はとても勉強になります。 別に先生の意見はまったく受け付けないと言うわけでなく、 もし正反対の理論があった場合には自分は師範の理論をとると言うことです。 ん〜、これも誤解をうけそうですね・・・。 つまり自分はバカなもんでどっちが正しいとかは判らないので先に出会った方を信じるという事です。
I:二足の草鞋さん 第一章の講義を拝聴して、まず、このような素晴らしい講義を公開していただいたことに感謝したいと思います。 本当にありがとうございます。 桧垣様が武道に限らないとおっしゃったので、サッカーのことで考えてみました。 今年の六月にW杯が日本で開かれますが、それに向けて、日本サッカー協会は、 日本代表を強化するために世界のトップチームの試合を分析し、 日本チームに足りないもの、欠けているものは何かを調べました。 その結果、日本に欠けているものは、華麗なテクニック等ではなく、 「基本」であるという結論に達し、その「基本」を身につける練習方法を開発していきました。 そして、日本代表のレベルアップには、日本のサッカー全体のレベルアップが必要ということで、 トレセン制度を整備して人材の発掘を図ると同時に、サッカー用語の統一、練習方法の公開を行ってきました。 そのお陰で、私のようなものでも情報をすぐ手に入れることができ、 自分のチームの練習に取り入れることができる体制ができあがっています。 この体制の根底には、言い方は違っても「術=技術、道=術習得のためのカリキュラム、練習体系」 という考え方があると思いました。 そういう点で、桧垣様の講義は私には大変わかりやすく、 また、自分の行っているチームの指導のあり方を、再認識することができました。 凱様がおっしゃっていますが、「術」を「理」によって確認することも必要だと思います。 道を歩いている(術)とき、自分がどこを歩いているかを知ること(理)は大切ですから。 桧垣様の講義は、武道(それ以外のものでも)を真摯に身につけようと考えている者にとって、本当に為になります。 繰り返しになりますが、素晴らしい講義をありがとうございます。第二章も楽しみにしております。 長々と失礼いたしました。
I:講師 >鷹ノ巣様
感想ありがとうございます。
>来ました。(実は来てた癖にこそこそ隠れていただけなのですが^^) カウンターを見ているとマイナーなHPの割りには(代表失礼しました)随分と訪問客がいるなぁと思っていました。
>学生時代に断念した師範の「武道講義」シリーズ 鷹ノ巣様の流儀はひょっとして玄和会ではないでしょうか。 南郷継正氏の著書は学生時代に何度も読みました。
今後ともよろしくお願いします。
>二足の草鞋様
こちらこそ過分な評価をしていただき、ありがとうございます。 私の技術上達論は武道だけでなく、他の分野に応用していただくことも充分可能だと思っています。 それぞれの分野の方が、これをヒントに更なる向上をしていただけることが本意であります。 いままで、約20年間埋もれていて発表する場所さえなかったのですから。。。。 (本当はサボってました。。。)
>サッカー用語の統一、練習方法の公開を行ってきました。 サッカーもそのような方向になっているのですね。勉強になります。 武道を練習するからといって、武道ばかり見ていたのではだめでしょう。 中国では動物の動作を見て一流を編み出した人がいるように、気づきは何処にでもあると思います。 そういえば有明省吾もサッカーをやってましたっけ。
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