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UPDATE:2004/05/29
平安の考察
私は平安の型は、空手のエッセンスを集めた極意の型だと思っています。
平安の型について「糸洲安恒翁が古流の型を参考にして、体育用に新しく作られた型」 という言い伝えです。 近年では平安の型は初心者用として扱われて、昇級審査ときに行われるだけのようになり、 黒帯を絞めるとやらない型となってしまっています。
糸洲安恒翁が平安の型を作られたのは70歳くらいで、その時期は明治35年頃と記憶しています。 拳聖といわれた糸洲翁が晩年に作った型が、「危険な技を抜いた体育用の型」なのでしょうか。 唐手の全てを知り尽くした人が、後世に残る型を作るに当たってどのような考えに立つのでしょうか。 私がその立場であれば、最高の内容のものを残そうとすると思います。
糸洲十訓は「空手をやれば強い兵士を作る」という意味のことが書かれています。 平安のネーミングについても、これだけ身に付ければ平和に安心して過ごせるということから、 この名称がついたと言われています。
危険な技を省いたと言われていますが、 久保田紹山先生より習った分解は極めて危険な技法を含んでいます。
空手を公開し一般に普及させるためには、上達過程を意識した型の創造が必要となったのだと思います。 初段、2段という表現は、示現流剣術で使われている段階的な呼称からきています。 糸洲十訓は明治41年頃書かれ「毎日1〜2時間で3、4年すれば奥深いところまで行く人もでてくる」という表現が使われています。
新しい時代に対応できるように技法を整理し、武器法にしか使えない部分などは省いているようです。 これは近代武道として先行している柔道を意識していると思われます。 多くの型を修得するよりも習熟することにポイントがおかれている為なのでしょう。
特に平安初段は、身体操作の土台を作るのと基本理念を修得する上で、 非常に重要な位置づけとなっています。
表演型と臨闘型
私が久保田紹山先生に習った時に、型について「表演型」と「臨闘型」と分けて教わりました。
表演型とは見せる型であり、また技術を盗まれないように隠した型のことをいいます。 一般的に見られる型がそうだと思って良いと思います。 ただし、間違いということではなく、初心者が習うには表演型で形を整えるということで良いのだと思います。
臨闘型とは隠し手を表に現した型です。 実際に使えるように復元した型をいいます。今まで一般には公開されたことは無いと思います。 新垣清師範の本にも「自分自身が一人で練習するときは、古伝の形を自分用に変化させ得る段階にある。 これは正式には無想会の形でなく、生徒にも、そして誰にも見せるべきものではない。」 と書かれています。
演武会でやっている型だけをやっても使えるようにはなりません。 分解組手を習った段階で、それを使えるようにするための型なのです。 型の練習とは演武会でやるような型だけでなく、一つの型を色々な練習方法で使えるようにしていくのです。 究源塾でやられている流れるような型などはその一例です。
※ 型と形:松濤館流では型を使いますが、 最近では形をつかう流派が多くなっているようです。
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空手の戦闘法
陶物にして打つ
船越義珍師は「陶物にして打て」とよく言われたそうです。
相手を動けないような状態にしてから、突いたり蹴ったりするということです。 簡単に表現すれば、空手の技とは「掴んで殴る」を高度化したものといえるでしょう。 従って、最初に習う「その場突き」が究極の戦闘法ということになります。
「その場突き」の「引き手」を腰に引くのは、そこから突くのではなく、 「腰の位置へ相手の手を掴んで引き込む」意味があります。 引きつけながら突けば、相手から見れば2倍のスピードの突きをもらうのと同じ事になり、 また絶対に外すことはありません。
久保田先生によれば「突き手は、どこからでもいいから最短距離を突きなさい」との事でした。 腰の位置から突く必要はないのです。
掴むということのメリットは、 1:相手の体制を崩し反撃をさせない(陶物にする) 2:必ず仕留める :掴んで引きつけながら突きを入れる。 ということになります。 また、「投げ技」や「極め技」への応用変化への導入ともなります。
交差法
空手の戦闘法として一般的に知られているのが、カウンターであります。 今まで説明してきた、上段揚受け、手刀受け、平安二段のコンセプトは 受け技とカウンター攻撃がセットになっていて、ボクシングのクロスカウンターよりは 安全に使用できるようになっています。
本部朝基語録に興味深い記述があります。
受け手がすぐ攻め手に変化しなければならない。 一方の手で受け,他方の手で攻めるといようなのは,真の武術ではない。 さらに進めば、受けと攻めが同時に行われる技が本当の武術である。
真の唐手に対しては、連続突きなどできない。それは真の唐手で受けられたら、次の手は出ないからである。
とあります。
ただ、カウンター技術の殆どが上段への攻撃であり、フルコンルールでは使えません。 また、寸止めルールでは当たってしまうために使用が難しいのと、 これらの技は腰から突くわけではありませんので一本は取れないと思われます。
人の手足を剣と思え
船越義珍先生の「空手道二十条」には有名な「空手に先手無し」も含めていろいろな教えを解かれています。 その中でも首里手系統らしい表現は15番目に書かれている「人の手足を剣と思え」です。
仮想敵が示現流剣術であったとする説もありますが、その真偽はべつとしても、 護身術として発達してきたものとして当然の考えです。 護身として必要な場面は、相手が素手とは限らず、 武器をもって襲ってくる場合も当然考えられるわけですから、 自分の身を守るためには、「人の手足を剣と思って練習」すべきなのでしょう。
闘争の歴史は武器の歴史でもあるわけで、むしろ素手の場合の方が少ないのではないでしょうか。 仮に相手がナイフ等の小さな武器(ボールペンでもよい)で突いてきたときに、 体で受けるわけにはいかないのです。
このような状況を防ぐには、「確実な受け技の習得」が必要ということになります。 その答えとなるべきものは、型の中にあるのです。
威力の養成
型は戦い方のエッセンスを残したものです。 従って、威力についても型に習得すべきものが隠されています。 初伝的には、相手を掴んで引きつけながら突けばよいのですが、空手のキャッチフレーズである「一撃必殺」となる威力の養成は、どうすればよいのでしょうか。
中国拳法では「発勁」という技術があるそうですが、師によれば「空手にも発勁と似たようなものはあります」ということでした。
その答えは姿勢(立ち方)、歩法にあります。 ヒントは、空手の型の歩法は「歩き足」で継足ではないことです。それも平安初段の型の中によく溶けています。 鍛錬用の型は、単純であればあるほど養成しやすいので、太極の型でも習得可能です。 私は臨闘型の手解きとして教わりました。
武器法
空手は基本的には素手の武術ですが、相手が武器を持って襲ってくるときは無理に素手で戦う必要はありません。 空手の格言にも「武器には武器で」という言葉があるそうです。
戦争に行くのに武器を持たないで行く人はいないでしょう。 戦闘行為は、武器を持って戦うのが本来の姿だと思います。
しかし、平時おいていつでも武器を携帯しているわけではなく、また、沖縄の場合は島津藩の禁武政策の影響で、一般人が武器を携帯できないために、日常に使っているものが武器として使われた経緯があります。
空手は本来、武器を使った動きと素手の動きをリンクさせてあるので、習得が合理的な方法になっているように思います。
試しに平安二段の分解を応用して、トンファでやってみてください。 相手が木刀で面(斜め面)を打ってくるのに合わせて、上段揚受けで受け、前手のトンファを回転させ相手の小手(指)を打ちます。 これと同じ応用で釵でもできます。
ただ、最近は型と組手の動きがバラバラになってしまっているために、必ずしも武器法をセットで練習するわけではないので、別物になってしまったようです。 空手と琉球古武道は、両輪として習得していきたいものです。
空手に先手無し
船越義珍師の空手道二十条の2番目に書かれてい言葉です。 一般的には、「空手を学ぶものは粗暴な振る舞いをしてはならない」という道徳的な意味に取られることが多いようです。 しかし、技術的な見方をすれば、これは空手の戦闘法をよく現している言葉だと思います。
相手の攻撃を受けることによって、自分が安全な位置に立ち、交差法によって無防備の相手を攻撃できるようになります。 上段揚受けや平安二段のアッパー+揚受けのように、受けることによって、攻撃の幅が出てきます。
このような方法によって、体格差のハンディを克服することができるのです。体格の劣る日本人が世界で戦うには、原点に帰るべきではないでしょうか。
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